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Forum Polonijne TAMA w Japonii
ポーランドの子どもたちのキャンプに参加して
「母と子」2002年3月〜4月号より
1.旅を通しての成長の物語 P3
小寺隆幸(中学教員)
〈言葉を奪われた地域〉
このカシューブ地方は1772年にプロイセンに併合をされ、その後ドイツ語が強制されてポーランド語に近いカシューブ語を教えることが禁じられてきました。その中で人々は、歌を通して子どもたちに言葉と文化を伝えようとしたのです。そのための絵が「カシューブスキエヌーティ(カシューブの楽譜)」です。ここに描かれているのは身近な農具などです。歌詞は「これは短い、これは長い、これはカシューブの首都、…」というように一つ一つの絵を言葉にして歌っていきます。これを繰り返したり逆順で歌ったりすることで、子どもたちが自然に禁じられた言葉を覚えるようにしたのです。私たちが泊まった学校の教室にもこの「楽譜」が掲げられていました。この歌は今でも人々に歌い継がれているのです。子どもたちは博物館でカシューブの農民のつつましい暮らしぶりと生活の知恵も学びました。そして誇りを失わなかった人々の心に共感しながら、展示室で「カシューブスキエヌーティ」を歌ったのです。
カシューブに限らず、ポーランドは1795年から1918年の分割占領時代に言葉や教育を禁じられたことに粘り強く抵抗した歴史を持っています。20世紀初頭にはプロイセンに対してポーランド語での教育を求め10万人の児童が学校ストライキで立ち上がりました。またロシア支配下のワルシャワでは秘密の場所でポーランド語や文化を教える「移動大学」が各地にでき、マリア・キュリーも若いころそこで学んだのです。このような歴史にふれることは、今も国境で引き離されている3カ国のポーランド民族の子供たちが自らのアイデンティティを考える上で大きな意味をもつのでしょう。言葉を奪われたことのない私たちにとっても、改めて言葉の重みを考えさせられた旅でした。
私たちはさらにポーランド国歌の記念館や第二次大戦勃発の地を訪ねました。その中で子どもたちと一緒に考えたことについては次号で紹介します。
(ポーランドの歴史については岩崎書店「世界の国々の歴史 19 ポーランド」を参照してください。)
[紙数の関係でカットした部分] ただ資本主義への移行に伴い貧富の差が拡大し、キャンプに参加できない子も増えています。また若者のスカウト離れも進行しています。旧体制下ではカトリック教会がスカウトを組織していました。教会が権力に対する抵抗の精神的拠点として、若い人をひきつける力も持っていました。体制が変り商業主義が広まる中で、子どもたちも目先の興味に流されがちなのでしょう。ちなみに人口13万のオポーレのスカウトは700名だそうです。なおポーランド人のほとんどはカトリックですが、このキャンプでも礼拝への参加は各自の自由とされていました。
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