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Forum Polonijne TAMA w Japonii
ポーランドの子どもたちのキャンプに参加して
「母と子」2002年3月〜4月号より
2.
ヴェステルプラッテの千羽鶴
P1
小寺隆幸(中学教員)
〈10年目の8月9日〉
前号に書きましたが8月9日はヤーツェクとの出会いの10周年でした。そこでその夜は私たちが日本から持参した「ほうとう」を作りました。市場でかぼちゃそっくりのものを買ったらズッキーニだったりと材料集めも一苦労。宿舎の高校の調理室から大きな鍋をお借りし、当番の子たちと大騒ぎして作りました。そして全員がお箸を使って食べました。できたものは日本料理というにははずかしいものでしたが、それでもみんなにとっては初めて味わう味噌の味で、不思議そうに食べておいしいと言ってくれました。
その後思いがけずうれしいできごとがありました。実はこの日は私の誕生日だったのですが、それを覚えてくれていたヤーツェクのはからいで秘密裏に用意されていた誕生祝いの大きなケーキが出てきたのです。そしてみんなが「Sto lato〈百年〉」の合唱。百年元気で生きようという歌詞のお祝いの歌です。ろうそくの火を吹き消しながら胸が熱くなりました。
その夜の集いで長崎の被爆の写真を子どもたちに紹介しながら、多くのカトリックの人々も原爆の犠牲になったことを話しました。長崎が古くからのキリシタンの町であること、後に囚人の身代わりとなってアウシュビッツで殺されたコルベ神父も長崎で布教していたこと、子どもたちも敬愛しているポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世が長崎を訪れたことも紹介しました。長崎の被爆を少しでも身近に受け止めてほしかったからです。話の後でヤーツェクは「自分たちができる方法でこれからも広島・長崎を取り組んでいきたい」と語りました。そのことが後の取組みにつながっていったのです。
〈ポーランド国歌と8月15日〉
翌日、コシチェルジーナの町からバスで1時間ほどの小さな村ベンドーミンに行きました。そこにポーランド国歌「ドンブロフスキのマズルカ」を作った詩人ビビツキの記念館があります。前回も書きましたがポーランドは1795年にプロイセン、オーストリア、ロシアに完全に三分割され、国家としては消滅します。そして多くの軍人が亡命しました。その一人、ドンブロフスキ将軍はイタリアでポーランド軍団を組織し、ナポレオンの下でオーストリアと戦ったのです。その中で作られたのが軍団の歌「ドンブロフスキのマズルカ」です。それは「ポーランドはいまだ滅びず われら生きるかぎり…」と歌われるのです。
ナポレオンの敗北によりポーランド独立の望みも断たれますが、その後もポーランド各地で蜂起が繰り返されます。さらに1848年に起きたヨーロッパ各地の独立革命運動「諸民族の春」では、亡命ポーランド人もそれぞれの地で独立運動に加わっています。記念館にはこの曲が各国で歌い継がれてきたことが紹介されていました。歌が民衆の抵抗と連帯の武器だったという重みを改めて感じたのです。
その夜、ヤーツェクが日本の国歌を集いで紹介してほしいと言ってきました。そこで「君が代」の歴史を話し、私自身は歌いたくないと率直に言いました。あわせて歴史教科書問題や小泉首相の靖国参拝への危惧を語りました。それはポーランド人にとってはドイツの首相がヒトラーの碑に詣でるようなことでしょう。なぜ今になってもこういう事態が起こるのか信じられないと驚いていました。
ドイツはポーランドに対して誠実な謝罪と補償を行い、教科書問題でも画期的な取り組みをしています。両国の文部省から選ばれた合同委員会が歴史解釈問題について協議し、統一教科書を作成したのです。もちろん両国とも教科書は自由採択制ですからそれが必ずしも多くの学校で使われているとはいえないようです。しかしこういう地道な努力が人々の信頼関係を深めているのでしょう。ヤーツェクやリーダーたちには、ドイツとは対照的な日本政府の姿勢は不可解で危険なものに感じられたようです。15日には皆ニュースを注視していましたが、ポーランドでは日本の動きは報道されませんでした。
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